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上田尚さんが継ぐ手技 金唐紙

 

上田 尚(うえだ たかし)さんが『金唐革紙』と呼ばれるものに出会ったのは20年前、1983年のこと。東京八王子の日本製紙発祥の地に建つ紙の博物館で、桜の一木からできたロール版木に出会ったのがその時だ。そこには精緻な鑿跡で唐草模様が彫りだされていた。運命的な出合いとさえ言えるような衝撃を受けたという。

 
この時以来、上田さんの人生は、30年近く関わってきた美術図書出版の仕事をやめ、和紙で作られた壁紙一筋に打ち込むこととなった。
Feature 008では、ヨーロッパと日本を結ぶ数奇な変遷をもつこの黄金に輝く金唐革紙についてご紹介したい。そして、日本各地に残る歴史的建造物の壁面修復がほぼ終了したと思われる現在、これからもこの黄金の紙を作り続け、材料、道具、技法をどのようにして後世に残していくかという問題に直面している上田さんからの呼び掛けに耳を傾けたいと思う。

バッキンガム宮殿の壁にも

革の壁紙が日本で和紙で作られ、輸出アイテムとして製作され、やがて歴史から姿を消すにいたった推移を、手短にまとめてみよう。
ヨーロッパの王侯貴族の館や僧院では、石造りの建物に吹きこむ冷たい風をよけるため、なめした子牛の革に金属箔を貼り、模様をプレスし、ニスを塗って金色をだしたのち彩色したものを壁に掛けていた。この種の革製壁掛けはスパニッシュ・レザーと呼ばれ、スペインに起源があるといわれている。

日本への渡来時期の定説はないが、もっとも古い文献は1662年の『徳川実紀』に登場するとある。時の珍しもの好きの大名や有力商人などにより、馬具や刀の鞘、手箱などとして珍重された。時代がさがって、粋好みの町人のあいだで流行した煙草入れなどの小物は、今もコレクションとして残っているし、時には骨董店でも見かけることがある。

さて、これに目をつけたのが、18世紀中頃に生きた異能の人、平賀源内だ。日本の工芸技法を駆使して、大量に作ろうとしたのだが、 どうやら彼の目論見は成功しなかったようだ。その後の明治10年(1877年)、第一回内国勧業博覧会には、九つのメーカーが擬革紙を出展し、これをきっかけに、本来の用途である壁紙が本格的に和紙で作られるようになった。叩いても破れない丈夫な紙を漉く技、浮世絵のための版木彫りと刷りの技、薄い箔作りの技、漆の技と、日本の得意とするさまざまな工芸の技があってこその金唐革紙の誕生だったといえるだろう。


そして、1880年からの10年間は、金唐革紙にとって文字どおり黄金の10年間であった。当時のヨーロッパは紙不足に悩んでおり、イギリス駐日公使ハリー・パークスは日本での紙の製造調査の命を受け、金唐革紙を含む膨大な量と種類の和紙と和紙製品 を買い集め、資料として本国に送っている。
これをきっかけとして、本物の革製と見まがう和紙製の金唐革紙が、ヨーロッパで大人気を博すこととなった。大きな需要に応えるた め、大蔵省印刷局が本腰をいれて製造するよ うになった。これが黄金の10年間だ。しかし製造が民に移された明治末期、機械漉き和紙が現われ、金唐革紙にも使われるようになったために質が低下、輸出不振、やがて金唐革紙はほぼ完全に姿を消すこととなった。


第二次世界大戦後、高級美術打出壁紙として生まれ変わった金唐革紙は、国会議事堂、財閥系企業の貴賓室、高級邸宅などに用いられたが、産業として成り立つまでの需要はなく、一般にはその存在すらも知られることはなかった。かくして、現在では上田 尚さんただ一人がその技を保存するため、制作と保存に情熱を傾けているという状況である。


金唐革紙はどのようにして作られるのだろう

工程としては、手漉き和紙に錫箔を貼り、水分を与えたのち版木棒に巻き付ける。棒の両側から二人で黒豚の毛で作ったブラシでひたすら叩く。彫られた模様にしっかりと和紙が食い込み、くっきりと模様が写し取られるまで、4〜5時間叩く。万遍なく平均した力で叩くこの作業はまるで修行のようだ。工房にはトントン、トントンという音だけが響き続ける。
模様を写しとった紙を陰干しし、二重の裏打ち紙を貼り、色漆で彩色する。その後、上からワニスを塗ると、まるで金箔を貼ったように、錫箔が黄金色に輝くのだ。本物の金箔や銀箔を貼る場合もある。金箔のものは浅めの 金色が上品な眩しさをかもし出し、銀箔は、まこもで時代づけをすると黒づんで落ち着いた雰囲気が生まれる。完成までにかかる時間は、60cm四方の金唐紙で約2週間。現在この作業は、上田さんを中心に、東京芸術大学の卒業生たち池田和広、後藤 仁、柳楽雄平の3人が手伝っている。日本画を専攻する 彼らは、上田さんの金唐紙によせる情熱に賛同し、その技法を受け継ぐひとになっている。 ちなみに、紙の博物館で上田さんが一目惚れした桜材のロールであるが、上田さんは新し いパターンを作りたくて、自ら木場に足を運び、ふさわしい桜材を選び、宮大工の流れをくむ欄間師と呼ばれる彫師に彫ってもらっ たりもした。一本500万円くらいかかる。 でもたいていは、和紙の博物館に収蔵されて いる117本の版木棒のなかから柄を選び、 借用して作るそうだ。


日本各地での修復

上田さんがこれまでに手がけた主な修復には、北海道の旧日本郵船小樽支店応接室(1985年)、長野県岡谷市の旧林家住宅(1991年)、広島県呉市、呉入船山記念館客 室(1995年)、孫中山記念館の兵庫県神戸市移情閣(1999年)、旧岩崎邸(2002年)などがある。なかでも注目されるのは、岡谷にある製糸業全盛期の遺産ともいえる旧林家住宅の、純和風離れの二階座敷の天井と壁一面に金唐革紙が貼り廻らされ ているものだろう。岡谷市の旧林家住宅は、一般公開されているので、興味のある方は岡谷市教育委員会(0266-23-4811)まで。

これら一連の修復作業は、3人のアシスタントにとっては、作る技術だけではなく、古い金唐革紙を実地に調べ、修復するという貴重な機会でもあった。一方、近年、金唐紙を新築に貼りたいという要望はきわめて少ないが、上田さんは東京西池袋の東京芸術劇場貴賓室、児童教育センタ−理事長室などの壁に金唐紙を貼っている。 いずれも一般的に見られるところではないのが残念だ。

もちろん、漆喰壁の美しさに偽りはないし、 ひび割れた土壁の味わいは胸に迫るものがある。京から紙の完成された図案に囲まれた室内は雅びだ。でも、あえて、金唐紙のような装飾を現代の建築物に効果的にとりいれよう、という建築家はいないのだろうか。

金唐紙の将来は?

上田さんは乏しい文献から学び、独力で研究した技法で作った紙を『金唐紙』と名づけている。しかし、金唐紙の使い途がなくては制 作を続けることができない。日本国内の修復が一応終了したと思われる現在、上田さんの悩みは、世界でも希なこの技術を、今後どの ようにして残してゆくかである。小箱、掛軸、 額装などの小物としてわずかに販売されてはいるが(江戸東京博物館ミュージアムショ ップ)、それだけでは技を受けついだ若者たちが金唐紙に関わってゆくうえで、とても充分とは言えない。上田さんは、海外建築物の 修復や新たな建物に壁紙として用いられる 機会を切に待ち望んでいる。

(2003/2 よこやまゆうこ)



 

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