藤塚光男さんは、信長の命をうけて秀吉が一夜で築城したという今浜城のある滋賀県長浜生れ。5人兄弟の末っ子は、絵を描くことが好きな少年でした。大学は法学部に進んだものの、六法全書よりももっぱら美術工芸書に親しみました。藤塚さんの積極性の一面は、『季刊銀花』に文章を見つけた古美術鑑賞家秦秀雄氏に、いきなり手紙を出すという行動に出たところからも伺えます。秦氏からは奥深い骨董の世界を学び、その他にもいろいろなご縁のとりむすびが重なり、法学部の卒業生は、石川県の「九谷青窯」に弟子入りします。
九谷青窯で藤塚さんが取り組んだのは、染付けの食器でした。少しくすんだ呉須でのびやかな線や筆の腹を使って描くダミの手法の湯呑や茶碗。飯碗を日に2、300も挽いていたのはこのころです。結局、11年という長い年月を九谷青窯で過ごしました。そして、ちょっと遅めの独立を果したのは36歳の時。IBMに勤めていたキャリアウーマン美子さんとは既に結婚していました。美子さんは今はマネージャーとして心強い存在です。 |
|