緒形 拳さんが季刊「銀花」に初登場の87号表紙
<はじめに>
季刊「銀花」(文化出版局)は1970年に創刊され、2010年に終刊号が発行されるまでの40年間、日本人の暮らしの美意識を主題に、読み応えある記事と見ごたえある写真で、読者を魅了しつづけました。その内容は多岐にわたりましたが、「手」の仕事にこだわり、国内外の優れた技や人々を取り上げました。終刊を惜しむ声は今でもよく耳にします。
季刊「銀花」の編集に初号から18年間携わり、内11年近くを編集長として企画、取材、執筆、撮影にかかわってこられた萩原 薫さんが、終刊後8年経ったいま、編集者として向きあった作り手たち、アーティストたちとの心に残るエピソードを、折に触れて投稿してくださることになりました。
豊かだったこの国の手仕事が、これからどこへ向かおうとしているのか、当時を振り返ることで見えてくるものがあるかもしれません。お楽しみ下さい。
シリーズその1は、書家でもあった俳優の故緒形 拳さんとのエピソード。取材する側とされる側との真剣勝負から、読み応えある記事が生まれることがわかります。
編集部に届いた拳さんの「詫び状」
「銀花」な日々−1 緒形 拳さんの詫び状
萩原 薫
編集部へ届く読者カードの中に、突出した持ち味の1枚を見つけたのはいつごろだったろう。あらかじめ印刷済みの文字や罫などまるで度外視。伸びやかな言葉が自在な筆致でしるされ、見る側の心をほどくような絵も在る。「拳」の遊印の朱が鮮やかでーーーまさか、あの拳さん?
以来、編集部の面々はその差出人からの便りを楽しみにし、いつも励まされた。「始めたら続けよう」スペインはバスク地方の言葉や、「鬼ならむ」と書かれた葉書などなど。
そんなカードが20枚近く重なり、「銀花」で拳さんの書や絵を紹介させてもらいたい、という主旨の手紙を読者カードに記された住所に送った。他社の雑誌の巻頭インタビュー記事を読んだばかりだったので、ひどく緊張したのを覚えている。記事のタイトルは「見事な不機嫌」。なにやら拳さんは取材の間中、不機嫌だったらしい。
鶴見の總持寺にほど近く、小高い丘に立つ自宅前で、拳さんは待っていてくれた。「散歩しながら話をしましょう」。初対面の著名な俳優は、ごくさりげなくこちらの気持をほぐし、やがて文人の書斎のような自室へ案内した。
書籍や墨の香りが漂う和室には小さな冷蔵庫があり、「半日がかりで自分で摩った墨汁を、ラップかけて入れてあります」。大きな作品を仕上げるときに、途中で墨が足りなくなると嫌だから、と。文机の周囲には中川一政の書や、旅先のボリビアで掘り当てた!三葉虫の化石など。「坐遍師友」という言葉が好きで、自分を触発してくれる師や友のような品を、いつも身近に置いているという。
書架に季刊「銀花」を初号から揃えていてくれた人は、この日は終始、静かな笑みを絶やさなかった。表装されていない作品や、自作のやきものの数々、長旅に必ず携えるという絵日記まで見せてくれたのだった。
こうして季刊「銀花」の87号(1991年秋)で誌面に初登場願って以来、93、94、95、96号に「墨童・緒形拳ひとりがたり」という連載、100号では特集「百の手 百の宴」の題字を書いてもらうなど、拳さんと「銀花」の関わりは続いた。しかし危うくなった時もある。ある日「緒形が萩原さんとは口を聞きたくないと申しております」という電話が、事務所からかかってきた。京都の染色家、小倉淳史さんの家で初めて布に書画をしるすため、自宅から筆や墨、硯に青い毛氈まで持参しているはずの拳さんと、翌日会う約束だった。カメラマンの小林庸浩さんも東京から同行の約束済み。ともかく出向くので、それだけ伝えてほしいと電話に返答し、外見はともかく心は青ざめながら京都に向かった。
連載記事は拳さんの聞き書きという形で担当編集者である私がまとめ、必ず彼に目を通してもらう約束だった。けれど連載2回目から拳さんに、もう事前チェックは不要、信用すると言われていた。「何がいけなかったのだろう」ーーー。
静かな佇まいの京都・小倉家、二間続きの和室で、拳さんは大きな白い麻布と向き合っていた。染色家と展覧会の企画者である林隆宣さんが新聞紙を広げたり、麻布を運んだり。たださえ張りつめた空気の中で、私とは「口を聞きたくない」書の人に、取材をしなければ記事が成り立たない。写真だけはともかく撮らせてもらう許しを得、間合いをみて話しかけた。「間違いや気に障ることがありましたか」。前号の文中のある部分が拳さんには問題だったと知らされて、ともかく帰京してから調べ直し、手紙を届けることになった。
そして。解釈の違いはあるものの、記述は間違いとは言えない、拳さんにご迷惑はかけていないはず、という返事を鶴見へ届けることができた。
びっくりしたのはそれからだった。時期外れの拳さんの読者カードが届いた。文面は「萩原さん 俺が悪かった 緒形 拳」。放っておいてもかまわないし、代理の人の電話でも良かったろうに。銀花編集部との連絡ツールは読者カードと決めているような、拳さんのダンディズムと優しさ、誠実さ、ユーモアなどなどに編集部一同、胸を衝かれたのだった。
「僕は俳優にあるまじき手をしている」「2番目に好きなことを職業にした。本当は書や絵で飯が食べられたら良かったんですが」「俳優はいつでもそこから跳べるように、「蹲踞」の姿勢で控えているんです」「僕は読めない字は書かないと決めています、当たり前の言葉も書かない」「字は書くのでなく、彫るのだと自分は思っています」ーーー。いずれも取材中、特に心に刻まれた「墨童・緒形 拳」の言葉である。
2018年4月現在も発売中の、文化出版局刊『緒形拳からの手紙』監修 小池邦夫
(写真はすべて筆者)
萩原 薫プロフィール
1966年東京女子大社会学科卒業。同年より、 文化出版局編集部に所属。
2児の育児休職計1年半を含めた38年間を、同じ職場で雑誌や書籍の編集者として過ごす。主な仕事は雑誌「季刊銀花」編集、暮らしを彩る手仕事を巡る書籍の編集など。後に文化学園大学、文化服装学院で非常勤講師。現在はごくたまに友人に頼まれた私家版限定本の編集など。
(2018/4 よこやまゆうこ)
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