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<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-2

季刊「銀花」第二号表紙と、秦 秀雄監修のもとに編まれた特集「民芸の花=古伊万里」から。白洲正子さん所蔵・赤絵大壺の姿も見える。
<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-2
本年4月から、元「銀花」編集長萩原 薫さんによるシリーズ投稿が始まりました。その第2弾をお届けします。
「秦 秀雄さんのとびきりな煎茶」

季刊「銀花」は1970年の創刊だが、実はその3年前、「美しい思い出の雑誌」と付記された雑誌「銀花」が誕生している。対象読者は文化出版局刊の婦人誌「ミセス」より少し年上。創刊号冒頭にタイトルの意味が記されている。 曰く「銀花」とは「秋の野の霧の彼方にかすかにともる燈り」、「冬空にひらひらと舞い散る白い雪片」、そして「夏山にひっそりと咲く白く甘い花すいかずら」。
静かな心のたたずまいを愛し、日々の暮らしに美を求める人のために、新しく生まれたーーと続く文章は「ミセス」を創刊した今井田勳編集長による。ファッション界で多くの人材を見出し育て、婦人誌に一時代を画した人は、一方で豆本の収集などで知られる趣味人でもあった。

が、1966年大卒の小生意気な新米編集者たる私は、配属された「銀花」編集部でかなりの居心地悪さを感じていた。実動部隊の中心には細井冨貴子チーフがいた。彼女による新雑誌の説明は「サラダじゃなくて漬け物、スープでなくみそ汁なのよ!」。女子大の洋画研究会というクラブで、当時人気のアメリカンポップアートに惹かれたり、抽象画もどきの油絵をせっせと描いていた若僧は焦った。自分に勤まるだろうか。
細井さんはそんな私を、新雑誌の主要執筆者たる秦 秀雄さんに引き合わせ、以降たびたび秦さんの住まいに使いや打合せ、撮影に伺うようになった。

当時、東京世田谷にあった秦家は、小振りの平屋。外見はひっそりと目立たない。しかし玄関の引き戸を開けると、清々しく端正な空間。六畳ほどの座敷の床の間には、主人が選び抜いた軸、花、落ち着いた風情の器物などが、さりげなく鎮まる。秦さんは魯山人の経営した伝説的な高級料亭旧「星ヶ丘茶寮」の支配人を約八年務め、井伏鱒二の小説「珍品堂主人」のモデルとなったその人である。
古今の真底美しい品々や、見事な書などを長年渉猟し、新たな価値を見いだし、広く世に問うという仕事をずっと続けてきた百戦錬磨の人はけれど、新米編集者をいつだって丁寧に迎えてくれた。

秦さんは大抵和服姿だった。禿頭痩身の彼にそれはよく似合っていた。きれいな長い指でゆっくりと煎茶を煎れてくれた。儀式めいた所作にも惹かれたが、何より煎茶の味が見事であった。古伊万里白磁のごく小さな盃風の碗に、香り高い茶の色が映える。柔らかな菱形で底の少し窪んだ錫の茶托も忘れがたい。煎茶の飲み方も秦さんが教えてくれた。まずは香りを楽しみ、少し口に含んだらゆっくりところがすようにして、静かに喉に届けていく。学生時代から続けていた茶道の手習いとは別次元の、緊張感に満ち、心弾むお茶の時間であった。

秦さんが教えてくれたことは数多いが、困惑したのは原稿を預かったら、まずはその場で読み通し、どんな事でも良い、感想を述べよと言われることだった。編集部に持ち帰り、細井チーフに電話してもらう、などは許されない。「書き物を渡す人はそういうものですよ、どんなことでもいい、まずは感想を聞きたいよ」その都度伝えた言葉は定かではないが、若造が必死で話すのを、大きな手で額からつるりと顔を拭いながら、いたずらっぽい目をしてこちらを観ていた秦さんの顔はしっかり心に焼き付いている。

1967年春号からほぼ隔月刊で「銀花」は8冊、号を重ねた後、タイトルのみを残して全く様変わりをした。変身した「銀花」のタイトル文字に添えられたのは「magazine for golden age」。編集スタッフは総入替で、若輩の私だけが残された。けれど、当時の首相夫人佐藤寛子さん、美濃部亮吉都知事、裏千家宗匠夫人千登美子さんらを各号で特集したりの新「銀花」も、ほぼ1年でさらに変身。季刊誌として再々出発をすることになる。編集スタッフは元に戻り、また私1人が居残りを命じられた。

季刊「銀花」1970年初号はこんな経緯の末に生まれた。秦さんの健筆も蘇り、私の世田谷通いも更に重なって行った。第二号の「古伊万里」特集の折には彼の使いとして、白洲正子さんのお宅へ、撮影用に大きな赤絵の壷を拝借に出向いたこともある。出版局の車に待ってもらい、玄関先で大切な品を預かり、そのまま失礼しようと考えていた若輩(でも無くなっていたか)は、白洲さんに炉のある部屋へと招じ入れられた。ちゃんと壷を拝見し、また箱にそれが納められるのを確認し、さらにお茶も頂いて「あなたも器が好きなのねえ」などと、今思えばもったいない言葉をかけられて、帰途についたのであった。

この「銀花な日々」をたまたま目にしてくれた方々に、ぜひ、『珍品堂主人』2018年1月25日初版・中公文庫増補新版の、一読、再読を勧めたい。小説ももちろん面白いが、白洲正子さんによる巻末エッセイ「珍品堂主人 秦 秀雄」が、秦さんの人柄を奥深い所で受け止め、映し出している傑作なので。
もう一冊。絶版ではあるが。秦 秀雄著/文化出版局刊『骨董一期一会』。「銀花」に掲載された記事、文章が中心だが、奥付の前のページにある「自己紹介」に、秦さんの面目躍如だ。
曰く。

「経歴なんぞ、どうでもいいやね。
明治31年、福井県三国生まれの不良少年です。
美しい物、可愛い物を見つけ
それを死ぬまで追いかけるだけです。」

<番外編>萩原 薫さんの「銀花」な日々シリーズはじまります!


秦 秀雄著『骨董一期一会』(文化出版局)の奥付のある見開きと、井伏鱒二著『珍品堂主人』増補新版(中公文庫)

「銀花」創刊号と、様変わりして「for golden age」と付記のある「銀花」5月号それぞれの表紙

季刊「銀花」創刊号の表紙と秦さん監修による特集「現代の良寛 帰庵さんの人と芸術」の中から。
(写真はすべて筆者)


萩原 薫プロフィール
1966年東京女子大社会学科卒業。同年より、 文化出版局編集部に所属。
2児の育児休職計1年半を含めた38年間を、同じ職場で雑誌や書籍の編集者として過ごす。主な仕事は雑誌「季刊銀花」編集、暮らしを彩る手仕事を巡る書籍の編集など。後に文化学園大学、文化服装学院で非常勤講師。現在はごくたまに友人に頼まれた私家版限定本の編集など。

(2018/6 よこやまゆうこ)

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