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でご紹介した谷 喜和子さんは、染め専門の作家です。好奇心と行動力で、もう今となっては経験できない手仕事を訪ねて日本各地を歩かれました。素材、技、後継者を失った産地が先細ってゆくのは日本の残念なことの1つです。
染織を学んで60年、その間、あちこちの産地へ見学の旅をしてきました。そうしたなかで手に入れた染織品、作家仲間の焼物や漆器など、今でも好きな物ばかりが手元に残っています。それらの中から、体験とともに、宝物と思っている1,2の品をご紹介します。
<黄八丈のこと>
1963年の夏休み、女子美の民芸部の仲間7人で竹芝桟橋から船に乗りました。八丈航路の船は1週間に1回。1晩黒潮に揺られて、翌朝八丈島に降り立ちました。めざす中之郷は船が着く港の反対側です。
目的の黄八丈の山下めゆさんのご自宅は、私たちの泊まる民宿のすぐそばでした。学生の目から見ればかなりなお年寄りに見えたのですが、今思い返してみれば、めゆさんは当時60代だったのではと思います。白髪で、夏ですから袖のない簡単な洋服を着て、元気いっぱいの方でした。庭には物干しに染められた糸が段階別にずらりと掛けられ、南国の太陽を浴びて光っていました。八丈刈安で染めて灰汁で媒染をする作業を見せながら、この作業を何10回と繰り返して染めることなどを話して下さいました。工房の柱に愛染明王のお札が貼ってあり、毎日「今日は良い色に染まりますように、、、」と祈ってから染める、とおっしゃった言葉にハッとさせられ、今も忘れられない言葉となりました。
柳 悦孝先生のご紹介で伺っていますので、先生に「こんないい色が染まったと先生に伝えて、、、」ときれいに染まった鳶色の糸を見せて下さいました。皆さんとても気さくで、民宿の女主人も加わり、庭で太鼓をたたいて「はあ~南風だよな みな出ておじゃれ~」と八丈民謡を唄い、私たちも教えていただきながら、かわるがわるに太鼓をたたいて楽しい時を過ごしたのでした。
当時、めゆさんの黄八丈は、銀座の白洲正子さんのお店『こうげい』に収めていると言うことでしたが、1反なら譲ってもよいと言って下さったので、その場で母に連絡し、「お金は送ってあげるから、譲っていただきなさい」と言ってもらい、手に入れることができました。今は少し派手に思うので着ることは少ないのですが、若い頃はよく着て外出しました。
八丈島ではもう1ケ所、「八丈カッペタ織」を訪ねました。今はもう絶えてしまったと思います。私たちが訪ねた時でさえ、お婆さんがたった1人細々と織っていました。片方を柱に結びつけ、反対側を自分の腰にまいたベルト状のもので引っ張る、いわゆる「いざり機」と言う原始的な織り方です。あぜをとって開く平らな木を「カッペタ」と言い、それで「カッペタ織」。細巾のベルト状の布を織っていました。
<芭蕉布のこと>
1964年初夏、父の会社の方が沖縄テレビの仕事で那覇へ行くと言う話に飛びつきました。「行きたい、行きたい! 同行させて」とわがままを言い、その方の秘書と言うことで無理を言って手続きをしていただき、急いでパスポートを取り予防注射をし、ドルを買い、飛行機で沖縄に向かいました。復帰前の沖縄は外国へ行くのと同じ手続きが必要でした。
その方と同じホテルをとってもらいましたが、着いてからはもちろん別行動。この時も図々しくも柳 先生のご紹介を頼りに、いろいろな方をお訪ねしました。戦後20年とはいえ、沖縄はまだ米軍の占領下にありました。
「紅型(びんがた)」は14代城間栄喜さんのところへ伺いました。工房を見せていただき、いろいろお話を伺いました。工房はテーブルセンターなどのお土産品を染めていましたが、ご自身は着物や筒書きの布を染めておられました。紅型の着物は高額でとても手が出ませんでしたが、筒書きの2巾の小さな布を譲っていただきました。これは後に作り直してのれんにして家にかけて楽しみました。
その頃の南風原(はえばる)の「琉球絣」は一見したところ久留米絣のようなものが多くみられ、本来の昔ながらの琉球絣の仕事ではありませんでした。それでも沖縄らしい絣を1反求めましたが、着るたびに藍が色落ちし、何度も水洗いしましたが、今でも薄色の帯は色移りが怖くて締めることはできません。読谷(よみたん)の花織(はなうい)も、今では盛んに織られていますが、当時は織ってる人はほとんどいませんでした。
喜如嘉(きじょか)行きは大変でした。タクシーを1日予約して通れて行ってもらうことにしました。まだ遺骨の眠る洞窟がそこここに残る時代で、道路が整備され海岸なども美しく整っている所は、すべて米軍が接収している所でした。途中でお昼休憩をとり、たしか沖縄そばを食べたように思いますが、そうこうしてやっと喜如嘉にたどり着きました。
平 敏子さんは大原美術館が染織の後継者を育成をした時の1期生です。戦後沖縄へ戻られて村の女性たちをまとめ、地元の産業として芭蕉布を織っておられました。
芭蕉を植え育て、その茎から糸を作り、その糸を括って藍やティーチ木で染め、そして織機にかけて織るという仕事です。ここでは私たちが柳 先生にご指導いただいた沖縄の伝統的な絣が生き生きと織られていました。お話を聞きながら、いろいろな絣の柄を見せて頂きました。ここでも1反はとても買えませんでしたので、半反ほどの生地と端切れを分けていただきました。
当時、私は織りを続ける気持ちでいましたので、参考品のつもりで入手しました。その後、もっぱら友禅染の仕事をするようになり、長いあいだ布のままで持っていましたが、ハサミを入れることは躊躇われ、できませんでした。30年位たった頃、決心して帯に仕立ててもらいました。
バブル時代になり、大きな着物の展示会で芭蕉布が出展されているのを見つけました。100万円以上の値がついていたでしょうか。でも、東京で着るには芭蕉の繊維はゴワゴワしていますし、沖縄の気候風土に合った物を着るのは難しいと思いました。「どういう人が着るの?」と 呉服屋さんに尋ねたところ「持っているだけでいいんですよ」と言われ「、、、?」と考え込んでしまいました。
小さな端切れは、つい先日、平 敏子さんの展覧会が開かれたとき、芭蕉布に感激し、綿から糸作りをして木綿の絣を織っている人と、紬を織っている若いお2人の方に、参考になればとお譲りしました。
これらの経験は、ずいぶん昔のことで、以上が思い出せる限りの記憶です。もっとそれぞれの仕事について書きたいのですが、裏付けとなる資料や写真などはすべて処分してしまいましたので、自信を持って書くことができません。古い古い、昔の話です。
谷 喜和子・東京
(2023/3 よこやまゆうこ)
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