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工房探訪第12弾『白山の麓に牛首紬を継ぐ 西山博之さんを訪ねて』


『布づくし・展』の出展者を訪ねるシリーズ、その12は、石川県白峰村に850年前から織られつづけている牛首紬(うしくびつむぎ)。今ではたった二軒残った織元のうちの一軒、白山工房の西山博之さんです。

玉繭という繭をご存知でしょうか。普通の繭は一匹の蚕が作ったものですが、玉繭は雌雄二匹の繭が一緒に作った繭です。養蚕農家で育てられる繭のうち、2〜3%が玉繭になります。そして、着尺一反(14m弱)を織るのに4000個の玉繭が必要です。玉繭は普通の繭に比べて少し大振りで、2匹の蚕が出した糸が絡み合うため小節があり、ふんわりと空気を含んだ糸になります。牛首紬の最大の特徴は、緯糸にこの玉繭の糸だけを使うことです。大正時代には年間15000反製産していましたが、現在は5000反ということです。


 
石川県の東南に位置する白山は、泰澄大師が開いた霊山として崇められ、天領とされてきました。その山麓の白峰村は、長い期間を雪に閉じ込められます。これは、女たちが糸を引き、紡ぎ、染め、織りに集中するには適した環境であるともいえます。白山工房の展示場には、藍をはじめ黒百合などの植物で染められた糸、玉繭、古い地機などの道具が分かりやすく展示され、地元の女性たちが糸紡ぎをしているところが見学できます。90度の熱湯に浮んだ玉繭から、足でペダルを踏みつつ、よどみなく糸を紡ぐ作業は忍耐のいる仕事です。玉繭の糸は絡みやすく機械化できないので、今でも人の目と手による作業です。牛首紬の風合いの決め手は、玉繭の緯糸にあるのですから、女性たちの仕事は気の抜けない作業です。織りの工房では、梅雨の最中だというのに加湿器からの湿気で経糸を守りながらの織りの作業。独自に改良した箱とび二丁杼を巧みに操りながら、6名の若い女性が一心に機に向かっていました。産業の少ないこの地での女性の職場として、白山工房は貴重な就職先となっているということです。

 
日本各地で消滅した伝統の織物産地は数多くあります。産業として成り立たない規模になると、産地はなくなります。この牛首紬がかろうじて踏み止まった理由、それは、土木関係の事業で成功した西山さんの父とその兄弟が、祖父がこよなく愛した牛首紬を絶やしてはいけない、との強い意志を受け、戦後の壊滅状態の時期を凌ぎ、金沢方面への流通を再開し、何とか現在の運営基盤を作ったことにあると伺いました。直木賞作家高橋 治氏が僻村塾に招かれ、地元の若者を導き励ましたことも、大きな力となりました。東京渋谷で着物学園を運営する清水ときさんとの出会いからはPRのきっかけを得たということです。消費地から遥かに遠く、PRのノウハウもなく、消滅しても不思議ではなかった織物が生き残ったのは、本当に人との出会いに負うところが多い、と西山さんは言います。

 
牛首紬の名を知っている人は、着物の好きな人に限られるかもしれません。5000反織られたうちのたった一割が、先染めの縞の着尺になり、あとは友禅染などの生地として白生地で出荷されます。ですから、2〜3%の男物を含めて、市場に出るのは、年間500反ほど。デパートの呉服コーナーで見つけにくいのもそのはずです。

   
西山さんは、850年の歴史を簡単に終らせてはならない、牛首紬の知名度をもっと上げたいと考えています。そして、それは、個人作家の仕事としてではなく、雇用機会の少ない僻村の地場産業として発展させたいと願っています。そのためには、品質の良さとともに、現代の着物好きの女性たちにアピールするようなデザインが不可欠です。養蚕農家が消えゆくなか、質の良い玉繭の確保も将来の課題です。これらの問題を抱えながらも、牛首紬はきっと着実にファンを増やすだろうとの思いを強くしたのは、西山さんの真摯な熱意でした。

白山工房:
http://www.ishikawashokokai.or.jp/
shiramine/product/koubou/

牛首紬:
http://www.kougei.or.jp/crafts/0115/
m0115.html

西山産業:http://www.ushikubi.co.jp

連絡先:
白山工房:0761-98-2859
加賀乃織座:0761-93-5755
   

(2004/10/よこやまゆうこ)


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