Home Feature Side Story Shopping About Us
 
prev.

 

工房探訪第14弾『織元はたった一軒、能登上布の山崎麻織物を訪ねて』


『布づくし・展』での出展品に、沖縄の上布などに加わり、4点の能登上布(のとじょうふ)がありました。能登上布は、越後上布、宮古上布とともに日本の3大上布と称される、麻織に絣模様が涼しげな夏用の布です。その産地石川県羽咋市では、昭和初期には140軒の織元から40万反が出荷されていたといわれます。
当主山崎仁一氏夫人幸子さんは、お嫁入りするまで染め織りとは無縁であったそうですが、今でも現場に立たれます。そして、今年の2月から家業を手伝うようになったご子息の隆(ゆたか)さんも、加賀市での仕事を辞し、真っ白な状態からのスタートです。能登上布は、夏の定番として女性誌、着物関係出版物に登場し、その取材も途切れることがないとお見受けしました。隆盛を誇った産地に、今ではただ一軒残った織元山崎麻織物で、その盛衰物語を伺いました。

 
   
文献をひもとけば、能登上布は崇神天皇の皇女によってこの地の人々に教えられたとあります。その発祥はロマンに満ちあふれているというのに、バブルのはじけた昭和63年、次々と廃業者が続き、組合は打つ手もなく、早々と“この地に能登上布なる優れた麻織物が生産されていました”の記念碑を建ててしまったのです。多くの織元は、着物ばなれとともに輸出用の広幅生地を織るための自動織機を導入しましたが、やがて輸出も奮わなくなり、さりとてもはや手機にもどることもならず。そんなとき山崎さんは、“できるところまでやってみようよ”と、続いてきた家業を廃することはなかったのでした。幸子さんは、当時の様子を、“昨日は裏隣のお家が、今日は右隣のお家が廃業してゆく”といった状況だったと話されます。山崎家が悲壮な覚悟や責任感からではなく、自然体で上布作りを続けて下さったっことは、今となってみれば本当に有り難いことだったと思います。能登上布という美しい絣の麻布が消滅することなく織り継がれることになったのですから。



 
それでも再び存亡の危機がやってきました。山崎家では、絣模様をつけた糸を織り手が自宅に持ち帰り織り上げる出機(でばた)でやってきましたが、その織り手が高齢化し、地元出身の後継者がいなくなったのです。ところが、廃業やむなしの状況にあったとき、各地から一人、また一人と、能登上布を習いたいという若者が現れました。来る者は受け入れる、という寛いこころで見守るうちに、彼女らは着実にその技を身につけ、櫛押染や整経、織りの現場を任されるまでに成長しました。たった一軒になってしまったために注文が集中し、人手が少ないぶんだけ作り手は大忙し、という状況とお見受けしました。この現象は他の工芸品にも見られることです。

さて、その技法について少し。まず図案が方眼紙に細密に書き込まれます。それに基づいて絣にする部分が決まり、整経した糸に櫛形の道具で染料をのせてゆきます。これが少しでもずれると、経緯(たてよこ)の糸が正しい模様を織り出せなくなりますから、この作業は目のよさと集中力が勝負です。蚊絣や亀甲絣のように細かな連続模様の絣も、同様の技法で染められます。最盛期には、この作業がくる日もくる日も続いたといいます。歴史を物語る古い道具がところ狭しと並ぶ工房で、職人たちによる整経と櫛押染めが行われていた光景が目に浮かぶようでした。


 


 
山崎家には、能登上布の古裂が残されています。時代による好みの変化は激しく、今は、洗練されたグラフィックな柄が主流となっていますが、古い裂には、思いもかけない自由な絣模様のものがあります。近い将来、これらをもとにして新しい感覚の絣模様が生まれるのではないか、との予感がしました。それは、きっと山崎家の跡継ぎ、隆さんの仕事になるのでしょう。

山崎麻織物の連絡先:0767-26-0240
 
   

(2004/10/よこやまゆうこ)


(C)Copyright 2004 Jomon-sha Inc, All rights reserved.

このホームページに掲載されている記事・写真・図表などの無断転載を禁じます。

 

(C)Copyright 2000 Johmon-sha Inc, All rights reserved.