型絵染といえば、人間国宝にもなり昭和59年に亡くなった芹沢介が燦然と輝き、他の追随をよせつけないといってもいい存在です。河野さんは、まさにその巨人の絶頂期に、臆することなく門を叩き、弟子入りを申し入れたのでした。“絶対、この人の弟子になりたい”との情熱が通じ、2年間の和紙染めアルバイトののち、晴れて内弟子となることができました。東京蒲田にあった『芹沢染紙研究所』の女子寮で暮らしながら、常に20人から30人いた内弟子の新入りとしての生活が始まりました。とはいえ、先生が手とり足とり教えてくれる環境ではなく、彼女はまず、毎朝明るい声で挨拶することで先生に顔を覚えてもらえるようになったといいます。 内弟子の仕事は、餅米と米糠を練り上げて防染糊を作ったり、豆汁を作ったりの重労働が朝6時から5時半まで続き、夜だけが自分の研究のための時間。序列や秩序が残る内弟子制度のなごりがあったのでしょう。芹沢氏は型絵染めのこととなると辛らつで容赦ない言葉を発する人物であった、と当時を思い出して河野さんは言います。しかしその反面、弟子たちには“美しいものをたくさん見なさい”と教え、ご自身も常にスケッチブックを手もとに置き、風景、花、道具、人物などを写生していたということです。芹沢は沖縄古来の紅型を再現した代表的な仕事をはじめとして、おびただしい数の作品を残しましたが、そのなかでは比較的目立たない仕事かもしれませんが、以前、目をひいた作品があります。『花よりも』と題された昭和41年の作品。4cm四方の小さな和紙の一片に、職人の仕事する形を描いた44点から成るシリーズです。職人の特徴ある動きの一瞬が適格な線で切り取られ、染められており、その技に驚嘆したことがあります。正確なスケッチと、型紙に彫るための図柄にするときの形のつかみ方には独特のものがあります。小さな仕事のなかにも完璧を求めることこそが巨匠なのだ、と教えられた気がしたものです。晩年、空海をテーマに制作していたとき、空海の顔が思うように描けない、と苦心している師の姿を河野さんは見ていたそうです。
(2004/11/よこやまゆうこ)
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