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京絞(きょうしぼり)の未来を見つめる寺田 豊さんを訪ねて


「布づくし・展 日本の布200選」に京鹿の子絞の着尺を出品してくださった「京絞り寺田」の若き当主寺田 豊さんを、京都船鉾町にお訪ねしました。船鉾町とは文字どおり祭のとき鉾が前の通りを通過し、そのとき二階の窓から鉾に乗り込んだことが由来。町家の奥に細長く続く空間は、近い将来、何か面白いことが起こりそうな予感を感じさせてくれます。

 
寺田 豊さんは寺田商店4代目として絞りの家業を継ぎました。1813年、初代は木版彫刻美術出版業を創業、1923、曾祖父が京鹿の子絞りの製造卸業を始めました。こうした家業の変遷の歴史も京都ならではでしょうか。 今でも総絞の振袖といえば、“豪華なお着物”の代名詞のようになっています。絞りといえば鹿の子絞(疋田絞)を思い浮かべる方が多いと思いますが、京の絞りとしては50種類以上の絞り方があります。でも、あの小さなぷつぷつがびっしり並んだ鹿の子絞が目に浮かんでしまいます。京都の絞りは千数百年まえに始まり、宮廷衣装の紋様表現として室町から江戸初期にかけて辻が花染として愛されました。鹿の子絞が普及したのは江戸後期にかけてといわれています。
 
     
    総絞の訪問着は最低でも16万粒、20万粒が絞られる場合もあります。さて、当節、誰がこの気の遠くなるような作業をするのでしょうか。もともとは京都郊外の農家の主婦の手仕事として行われてきました。けれども農家の主婦にもっと魅力的なアルバイト先が現れた高度成長期、寺田家では韓国から人を招いて絞りをするようになりました。そして京都絞り業の多くが中国の手を求めるようになりました。機械も道具もいらない手作業なので、出てゆきやすかったのでしょう。絞られたものは京都に持ち帰り染めます。京の町の地下水でないと色がでない、つまり染めだけは京都以外では無理とされてきたのです。
     
 
     
    寺田さんは危機感を持っています。今現在はある程度の仕事量があるので染め屋も営業を続けていられるけれど、いつまでこれを確保できるだろうか。技をもっている人が存命のうちに、技を広げておかなければ。もう、隠している場合じゃない。同業者間で競争しているときではなく、支えあって残してゆくことを考え行動するときだと。海外にも広めたい。パリ市主催の催しに参加し、ギメ東洋美術館の永久コレクションに。1999年にはパリ・コレで発表。2003年にはミラノの美術学校と交流。これらすべての活動は、絞りをあまねく知らせたいとの思いと同時に、自らの視野を広げる機会でもありました。
     
 
    寺田さんが家業に入った20代のころは、嫁入りの際の一枚としての羽織が中心だったので、絞った着物を女性が着たところを目にすることがほとんどありませんでした。地方の問屋を仲介して入ってくる注文の図柄と色で仕上げることはできても、励みがないばかりか、不安でもあったそうです。けれども今は、流通が短くなったぶんだけお客様の顔が見えるようになったとおっしゃいます。そのためには、自ら歩いて小売店を訪ね、気に入った店に品をおいてもらう努力をしたそうです。店が品物を選ぶのと同じように、作り手も扱ってもらう店を選ぶ気構えが必要というわけです。また、直接お客様から注文を受けることができる企画展が、作り手にとっては最もやりがいのある方式と考えています。
そのために、あの、町家の奥に向って延びる空間がいよいよ登場となるのです。
寺田さんの近未来の計画は、工房を再生させ、絞りの作業を見てもらえるようにし、併設ギャラリーに作品を展示することを考えています。 寺田家に伝わる「絞染種別裂集」には、昨今では目にしなくなった絞り方のサンプルが集められています。それらも復活させたいと思っています。デザイナーでありプロデューサーでもある当主の計画が完成したときには、ぜひツアーを組んで見に行きたいものです。


連絡先:京絞り寺田 075-353-0535
     
   
(2005/5 よこやまゆうこ)

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