Home Feature Side Story Shopping About Us
 
prev.

 

郡上紬の流れをくむ宗廣佳子さんを訪ねて


信州の鎌倉といわれるほど由緒ある寺院が点在する別所温泉にほど近く、遥かに連なる山並を眺める日当たりのよい一角に、宗廣佳子さんとおつれあいの吉沢 武さんの工房はあります。佳子さんは、郡上紬の復元者として知られ、人間国宝となられた故宗廣力三氏を父として、日々の暮らしそのものが染め織りという環境で育ちました。だからといって、父から染織の特訓を受けたわけではないそうです。郡上工芸研究所は兄陽助夫妻が後を継いでいらっしゃるので、佳子さんは心の赴くままに創作を楽しんでいらっしゃいます。とはいえ、父力三氏のもの作りに対する信念と哲学は、しっかりと佳子さんにも受け継がれ、その染め織りの根っこに秘められているように感じられました。

 
    佳子さんの語るままに故宗廣力三氏のことを少し。大正3年に岐阜県郡上八幡に生まれ、青年期を昭和の戦争と共に過ごさざるを得なかった力三氏は、志願兵となるも健康上の理由で返され、昭和10年ころから地元に郡上郡青年団理事として「凌霜塾」を設立。お国のためと信じて若者を鍛え、満州開拓に送りだしていました。そして敗戦。送りだした若者たちの運命に強い責任を感じる一方、戦後の引揚者に生活の道を立ててやる立場にたたざるをえませんでした。開拓団をつくって生計の道を模索するなかの一つに織物がありました。佳子さんは父36歳のとき長女として生まれ、小学生のころには、何人もの研究生が集団生活をしながら共に仕事をする生活が始まっていました。昭和34年、河井寛次郎の勧めで開いた京都高島屋での展覧会をきっかけに、郡上紬は大人気を博し、力三氏の作家としての本格的な活動へとつながってゆきました。そこには戦後の大きな需要という時代の流れもありました。
 
    1986年11月に日本経済新聞に掲載された力三氏の文章に、『「つむぎ」の着物を奥美濃の開拓村でつくりはじめた頃、どんな着物が美しかろうという素朴な私の問いに、印象に残る答をかえしてくれた呉服屋の老主人がいた。「道ですれちがった時、“パッ”と目に入るような着物はさておき、何となくほのかな爽やかさのみ残して通り過ぎて行く着物」。これが一番という。個性的で自己主張の着物も楽しいが、一方にこんな見方も私にはどこかしっくりするものがある。そんな着物をつくるには、技を感じさせない程の、高度な技を磨かないと出来ない。』とあります。
佳子さんの着物を拝見したあと、頂戴した宗廣力三展図録にあるこの文章を目にしたとき、佳子さんのもの作りの姿勢が分ったような気がしました。その作品たちはどれも奇を衒わず、控えめな色使いのなかに工夫をこらした織りの技が秘められていたのです。光のうつろいが、微かな色違いに染められた織り模様を浮きだしてみせる矢車ぶし染めの一枚など、まさに“ほのかな爽やかさ”に、行き過ぎたあと振り返ってみたくなる美しさをもって、着ているひとの奥ゆかしさを感じさせてくれる着物といえそうです。
“抑制が効いている”ということが、優れた日本の工芸品に共通の魅力であろうと常々思ってきましたが、佳子さんの着物にも、“着る人を主役にする着物、着れば着るほど美しさを増す織物”を見た思いがしました。
 
  父の創作を見て育った佳子さんは、“子供のころは染織が好きじゃなかった”と。家を離れたくて大学は京都工業繊維大学へ。さらに単身移り住んだ信州で琴作りをする武氏と結婚。子育てのあいだは制作にも制約がありましたが、最後の子供が独立したこれから、納得のできるものづくりをしてゆきたいと考えていらっしゃいます。来年秋に長野市で予定している個展にむけて、新たなスタートです。
最後に、同じ力三氏の文章から、『人の手から生まれる技を大事とする私共のこれからの仕事は、熟練を軽んぜず、熟練のみでは足らず、心を通して形を表現しなければならない。心は形に「いのち」を与えるもの。そこには心技一如の道がある。果してそのように願う手仕事の技は、どれだけこの時代の中に開花することができるだろうか』
   
 


(2005/10 よこやまゆうこ)

(C)Copyright 2004 Jomon-sha Inc, All rights reserved.

このホームページに掲載されている記事・写真・図表などの無断転載を禁じます。

 

(C)Copyright 2000 Johmon-sha Inc, All rights reserved.