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風通織絣の復元に打ち込んだ薦田綾子さんを訪ねて


2004年1月に新宿のリビングデザインセンターOZONEで開かれた『布づくし・展 日本の布200選』に薦田(こもだ)綾子さんは、風通織絣(ふうつうおりがすり)という布を出展して下さいました。絣は糸を括って染まらないようにするか、捺染で模様を染めて柄合わせをして絣にするかの、いずれかの技法があると理解していたので、織りで絣を作ると知り大いに興味をそそられました。織られた布を拝見し、資料を見せて頂き、この複雑な織りの技法が愛知県知多地方や松坂などにも伝えられていることを知り、ただただ感嘆するばかり。薦田さんは知多でグループのメンバーたちとともにその復元にかかわりました。

 
  薦田さんと織絣の出会いは、知多市民族資料館での手織教室に参加したときに始まります。主婦のおけいこごとくらいの軽い気持から機織りを選んだということですが、持ち前の好奇心と探究心のゆえか、やがて研究グループの中心として活動することになったのでした。
愛知県知多地方では、昭和10年代まで、女性たちは内職としてさかんに機織りをしていました。“機が織れんと嫁に行けん”といわれたほど、家族の着るものはすべて姑と嫁が織ることがあたりまえでした。薦田さんたちが研究を始めたとき、8本のペダルを駆使して複雑な模様を織り出す技法をおぼえていて教えてくれるおばあちゃんたちがいました。けれども、昔のことでもあり、おばあちゃんたちも、機にかけて織ってみせてくれることはできません。そこで、資料館の館長に助けを求め、明治30年代の風通織絣の講習筆記を解読してもらい、組織図におこし、なんとか復元にこぎつけました。想像力と地味な努力の積み重ねでした。。三河田口、近江栗東、下総佐倉などにも、昔の講習筆記が残されているそうです。
織絣では、綜絖(そうこう)の通し方、足の踏み方、さらに踏み足紐吊りの使い方などの組み合わせから、複雑な柄の織絣を織り出すことができます。一見すると絣のように見えますが、よくよく見ると、絣ではだせないような複雑な模様の連続です。白と藍の2色の糸から縦横無尽な組み合わせの柄を織り出すしくみを考えだした昔の人々の工夫や熱意、ねばり強さに驚嘆せずにはおかれません。美しい色で染めた絹の着物を身にまとうことなど考えられなかった農婦たちのために生みだされたものなのでしょうか。
織絣は、二重織りにするため、着物2着分の糸が使われていることになり、丈夫ではあっても、今となっては重いことが着物としての魅力を半減していました。薦田さんは糸の番手を細くするなどの工夫をかさね、遂に平成4年、東海伝統工芸展に出品した『鄙の四季』で奨励賞を受賞しました。同年、京都西陣が着物の奨励のために設けていた「おりなす賞」も受賞しています。
 
    以前、研究グループでは、木綿糸自体にもこだわり、米綿、ペルー綿、パキスタン綿など、世界各地の産地の綿を比較し、サンプルを織り、風合いを確かめながらの作業をしたことがあります。ご自分でも木綿を植え、綿を採り、綿繰りをし、紡いで糸にしたいと、探究心いっぱいです。
今、薦田さんが取り組んでいるのは、青柿から渋をとり、柿渋染めした糸での捩織(もじりおり)です。捩織は普通、腰機(地機)で織られるのですが、薦田さんは高機で織っています。素人目にもとても複雑な織り方であり、経糸が捩れた布が織れます。どうやら、やっかいなことに挑戦するのがお好きらしいとお見受けしました。
ご主人の仕事の関係で引っ越しが多かったそうですが、機を始め、整経台、糸車、座車など、機織り作業に必要な大小さまざまな道具を引っさげてのひっこしが大変であるばかりか、機部屋として一部屋を確保するのは、意志強固に主張しなければ叶わないことだったろうと想像します。ご家族の理解あっての主婦のキャリアであることを感じました。
薦田さんは今でも知多のグループに参加し、月に一週間ほどは仲間との作業を楽しみます。子育てのあいだも投げ出さずに続けてきた機織りに、存分に打ち込める時期がやっと到来したようです。
   
   


(2005/11 よこやまゆうこ)

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