side story 208
で旅行体験について寄稿して下さった木工作家羽生野亜さんを茨城県古河にお訪ねしました。
羽生さんは、2009年6月、英国の木工作家たちとの交流を目的に、英国に旅しました。持てる範囲の作品を携え、スライドレクチャーを行いました。英国の作り手たちは、一見、自然に風化した木目そのものに見える木皿が、実はまっさらの木材から作られていることに、戸惑い驚き、そして、その着眼と手技に賞賛を惜しみませんでした。
手を使う仕事に入る前の羽生さんの職業は、工業デザイナー。1999年、生活家電から電車などの大型機器のデザイナーの一人として、コンピュータに向かって図面を引いていました。けれども、この頃からデザインの仕事に違和感を覚え始め、“デザインなら、自分より上手な人がたくさんいる。自分がしなくてもいいじゃないか。工業デザインは複雑で難しい。手に負えないかもしれない” と思うようになりました。
人との共同作業も苦手。最初から最後まで自分の手で完成させる仕事がしたい。そんな思いが強くなり退社。長野県木曽にある木工訓練校に1年間通い、福島県三島町に居をさだめました。訓練校で習った技術で家具を作るようになり、スケッチブック何冊分ものデザインアイディアがたまってゆきました。ところが、これも羽生さんのこころにぴったり来ることはありませんでした。“僕がやらなくてもいい。” そんな思いを払拭できない苦しい時代だったと振り返ります。そして木彫仏像の風化した木の表情にこころ引かれ、長い時が作り出したものを、この手で生み出すことはできないだろうか、と試行錯誤を始める日々が始まります。訓練校を出て3年、デザインした形に木を嵌め込むのではなく、木の表情や感情を引き出したり強調したりした作品が生まれるようになりました。表面仕上げも、あたかも風雪にさらされたような肌合いを、塗ったり拭いたりこすったりして生み出す技を獲得してゆきました。このとき羽生さん27歳。
まだまだ暗中模索ながら、わずかなてがかりをたよりに、1995年の朝日現代クラフト展奨励賞をかわきりに、日本クラフト展グランプリ、高岡クラフト展グランプリと、説得力ある作品を発表し、クラフトウオッチャーたちの瞠目を集めました。それからは水を得た魚のごとくに個展を重ね、酒卓は大小100点、皿はゆうに1500枚ほども作ってきました。そして昨年の個展では、“封印を解いた”とご本人がいう、“デザイン”が顕著な家具を発表しました。自ら溶接する鉄を使うようにもなりました。羽生さんの工房には、沢山の材木や鉄素材が、形を与えられるのを待って山積みされています。このデザイン性を打ち出したアプローチは、長年、羽生作品を見続けてきた者にとっては、驚きであると同時に新しい広がりをもつであろうこれからに、ますます興味引かれる展開となりました。
1905年生まれの建築家ジョージ・ナカシマは、木の表情を巧みに使いながら建築家の目でデザインした一連の家具を生み出し、“クラシック”としての地位を与えられ、現在も四国高松の木工所で生産されています。一方、羽生作品は、木の表情に寄り添い自然のままの風情を好む日本的表現のようでありながら、実は、自分の意図する方向にもってゆくデザインの視点と、それを可能にする手技から生みだされています。“自分たちの制作のうえで、形、テキスチャー、仕上げなどにおいて、改めて考えるきっかけを与えてくれた”と英国木工家たちに言わしめた羽生作品は、木工の流れの中に、確かな位置を占めるに違いありません。
福島県昭和村で織姫として修行していたときに出会った曜子夫人は、結城紬の織り手でもあり、羽生さんの創作の軌跡をそばで見守ってきた最大の理解者であり、パートナーです。3月の個展が楽しみです。
(西麻布 桃居にて3月12日〜16日)
(2010/2 よこやまゆうこ)
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