能登半島の知られざる景色、失われゆく歴史的建造物などを、地元の建築家・高木信治氏が綴ったエッセイをシリーズで紹介しています。高木氏のプロフィールは
シリーズその1
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能登半島には外観が「浜屋造り」という建築様式の建物が多く残っている。これは正面が切妻で、通りに面して下屋が付いたシンプルな形であるが、その下屋の屋根と妻面のバランスは、建物の用途や規模によりさまざまなバリエーションがみられる。
珠洲市の飯田町から北に5kmほどの蛸島は、今もキリコ祭りが盛大であるが、この地には北前船の頃、海商として栄えた島崎家の建物が残っている。長年使われなかったため、奥の土蔵や海側の土蔵の下屋は壊れてしまっているものの、主屋は前庭の松の木とともにゆったりとした雰囲気の浜屋造りで、蛸島の「さりげない風景」の一部となっている。
かつて、この島崎家の敷地の海側は「三蔵の浜」と呼ばれ、沖合の弁天島に向かって防波と船の繋留のために築かれた「石倉」と呼ばれた突堤が延びていたという。しかしこの浜も昭和後期に埋め立てられてしまい、弁天島と帆前船の美しかったであろう「三蔵の浜」の昔日の風景は、今は想像するしかない。島崎家は、幕末期には二隻の千石船を持ち、大いに栄えたそうである。北前船はもとより商船であるが、時には便船として親書や旅客を運ぶこともあったそうで、なかでも島崎家の便船は評判が良く、「松前行くなら三蔵の船で」とも語り伝えられたようである。島崎家は廻船業の他に船宿も兼営していたそうで、現在残っている主屋には船宿独特の造作が施されており、とりわけ「隠し部屋」の存在は特徴がある。親に隠れて蝦夷地を目指す若者をかくまったり、臨検に対応するためであったという。
このような歴史的な建物が珠洲市、蛸島の貴重な文化財として保存されるべきと思われるが、今のところそのような方向には向いていない。 能登は過疎地となって久しいが、珠洲市には里山、里海のすばらしさに惹かれて移り住む若者が少しずつ増えている。集落の人達とかかわりながら楽しく自然農法をしている夫婦や、空き家を利用して工房やギャラリーにしている作家たちである。自分たちの新天地を求めて、かつては若者が働くところが無いといわれた能登に、今、目が向けられている。*
高木信治氏による『さりげない風景』はビル・ティンギー氏の翻訳で英語版でもアップしています。
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(2014/10 よこやまゆうこ)
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