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<番外編>『奥村土牛記念美術館訪問』
   千曲川に沿って国道141号線を辿ると、川を渡った佐久穂町の一角に「奥村土牛記念美術館」があります。
   奥村土牛(おくむら とぎゅう)は、現代日本画壇の最高峰に位置した日本画家です。1889年東京に生まれ、1990年に101歳で亡くなるまで画業一筋に打ち込み、多くの日本を代表する芸術家や著名人に愛され、1962年に文化勲章を受賞しました。
   自著『牛のあゆみ』(中公文庫)では、「生いたち」「絵画入門」「古径画室」「院展」「疎開」「戦後」の章立で、長い人生の様々な場面がつまびらかで飾らない筆致で余すところなく記されています。土牛の生きた環境や人となりを彷彿とさせるいくつかの逸話を拾ってみます。

   生まれたのは東京・京橋鞘町、当時は東京駅界隈は野原だったと記しています。ひ弱な子供で、医者には15歳まで生きられないと告げられていたこと、17歳で画業修行に入り、梶田半古門に入り、もっぱら塾頭だった小林古径の指導を受けたこと、朝8時から夕刻までずっと修行に集中の日々であったことなどが綴られています。みずから「病的なほど絵のことばかり考えていた」と記している言葉が印象的です。
   日露戦争直後、日比谷公園で騎乗の乃木大将に出会い最敬礼をしたこと、二・二六事件では、戒厳令のなか、反乱の相談が行われていた山王ホテルで何も知らず食事をとっていたことなど、当時の世情を身をもって体験した臨場感あふれる描写も目を引きます。
   土牛の素描を中心とするコレクションの美術館が、何故に長野県の佐久穂町にあるのかは、「疎開」の章で明らかになります。昭和19年5月25日の大空襲で赤坂の家が消失、家族を疎開させていた南佐久郡臼田町に移り、土牛もここで終戦を迎えました。引越し先の穂積で、親身になって援助してくれたのが、地元の旧家である黒田酒造であり、その後、4年間ほどこの地に住まい、八ヶ岳東麓を広範囲に歩き、風景や動植物をスケッチしました。この頃までに子供は7人になっていたと言います。このご縁で、黒澤酒造が会館を美術館にしようとしたとき、土牛はたくさんの素描を美術館に寄贈したのでした。この建物は、床、天井、壁などにふんだんに木が使われており、土牛の素描を掲げるにふさわしい落ち着いた佇まいを持っています。よく手入れされた庭には、年古る見事な藤棚があります。藤の咲く時期に再訪してみたいと思いました。
   『牛のあゆみ』の解説のなかに、美術評論家・河北倫明氏の興味深い文章があります。「大森の小林古径師の画室に住みこんで、その清純な感化を吸収した土牛青年が、師によって日本画や東洋古典の高い精神的境地に導かれると同時に、幾多の参考書をあてがってもらい、中でも特にセザンヌに心惹かれ、セザンヌに関するものならなんでもというほどに打ちこんだことは知られている。私は、この事実の中に、土牛画伯の中に本能的にセザンヌと共鳴する何ものかが自然に躍動していた事態を想察する。それは、近代絵画の教科書にあるような立体派の始祖、あるいは抽象画の出立点としてのセザンヌといったものでなく、むしろもっと素直なセザンヌそのものである。自然を実存的、原則的に純化してみると同時に、その深く澄んだ精神的統一までを感得するような美精神、そのような形と心の両面において、土牛青年はセザンヌ芸術の高い波長に惚れこんだと私は解するのである。」
   土牛は80歳を過ぎてなお「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵を描きたい」と語り、100歳を超えても絵筆を取り続けました。寒山拾得の詩の「土牛、石田を耕す」から父がつけた画号どうりの、黙々とゆったりとした足取りの長い人生だったのでしょう。

奥村土牛記念美術館
長野県南佐久郡佐久穂町大字穂積1429-1
0267-88-3881
(2022/11 よこやまゆうこ)

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